本尊 阿弥陀仏
本堂 横間五入五間


(十一面観音)
 境内に十一面観音(修復計画中)、弘法大師門有り、又、立花実山の葬儀を司ったという証の戒名が現存する最古の過去帳にみることができる。
 嘉穂郡誌によると、浄善寺は寛文(1661〜1663)初年に浄冏和尚によって開基されたとある(嘉穂郡寺院明細帳)
 又、筑前続風土紀拾遺に誓誉俊連と云う僧開基す、とあるが浄善寺過去帳等から推測するに浄冏和尚が開山上人とするのが順当のようである。
 浄善寺の縁起、沿革に関する記録は天保十一年の大洪水によって流失不明と嘉穂郡誌にあるように、浄善寺の記録にも、「当時五世達冏和尚滅後、五十三年間無住により大破に及ぶ。天保十一年六月、大洪水により畳までも腐り、諸道具無し、ただ本尊様のみ残り玉う。処に性誉上人(長崎西寺町法泉寺隠居)住転す。 随誉書」とある。
浄善寺の寺暦の中で特記すべき上人は数名挙げられるが、唯一現在に寺暦の一端を残された十九世随誉上人、そして二十五世の忍誉隆弘上人であろう。忍誉隆弘上人は天草の産にして、粕屋郡清光寺察誉義道上人の徒弟たりしが地ノ島西光島を経って昭和三十八年五月、浄善寺住転を拝命。荒れ果てた諸堂の再建に係る。現存する伽藍はその殆どが改装、造営され、浄善寺およそ三百四十年の歴史の中で最高の隆盛といっても過言ではないと思われる程整理された。依ってこれを中興開山と称す(総本山知恩院より中興の号を賜う)
 浄善寺開基にまつわる縁起に谷家による造立が考えられているが、(庄司、本誓寺の末寺だったと説有り)過去帳の浄善寺創立時期に連なる谷家の面々の戒名は、浄善寺で行われた葬儀による記帳ではなく、後世の一員が先祖回向の為に記されたものと考えた方が妥当と思われる。しかし谷家が随誉上人代に浄善寺復興にただならぬ功績を残しているのは記録により確認できる。
 いずれにしても浄善寺は開基以来困窮の中で営まれていたものと推測できる。資料がない以上推測でしかないのが残念であるが、もっと広く資料を収集し、史実に基づいて考証していかねばと考えている。
二十六世 廣誉 敏規
鯰田・立花実山・浄善寺